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細川 ガラシャ(細川 玉)のお墓
永禄6年(1563年)〜 慶長5年(1600年)
細川 ガラシャは明智 光秀の三女で、15歳の時に父(明智 光秀)の主君 織田 信長のすすめによって、細川 藤孝(ほそかわ ふじたか)の長男である細川 忠興(ほそかわ ただおき)に嫁ぐ。
その生涯は、波瀾に満ちた内容となっている。
天正10年(1582年)6月、父(明智 光秀)が織田 信長を本能寺で討って(本能寺の変)、自らも滅んだため玉は「逆臣の娘」となる。
その後、丹後の山奥の三戸野に幽閉されるが、2年後には信長の死後に覇権を握った羽柴秀吉(豊臣 秀吉)の取り成しもあって、大坂玉造の細川屋敷に呼び戻されるが、なかば監禁状態で外との接触を禁止されていた。
外出も許されぬ玉が、ただ一度教会に行ったのは、天正15年(1587年)、秀吉の九州征伐に伴って忠興が出陣していたときであった。
教会では、そのとき復活祭の説教を行っているところで、玉は修道士にいろいろな質問をした。
そのコスメ修道士は後に「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と述べている。
なかば監禁状態の玉は、その後も侍女たちの助けをかり、幾度か教会に通う。
玉はカトリックの話を聞き、その教えに心を魅かれていった。
玉が初めて教会に行った同じ天正15年、九州にいた秀吉から突如「バテレン追放令」が出た。
バテレン(※1)が退去するのを知った玉は、その前に洗礼(※2)を授けてくれるよう懇願する。
密かに洗礼を受け、「ガラシャ」という洗礼名を受けた。
「ガラシャ」とは、“Gratia”ラテン語で恩寵・神の恵みの意。
玉は気位が高く怒りやすかったが、キリストの教えを知ってからは、謙虚で忍耐強く穏やかになったという。
その後、関ヶ原の戦いが勃発する直前の慶長5年(1600年)、石田三成は、大坂玉造の細川屋敷にいた玉を人質に取ろうとしたが、玉はそれを拒絶した。
三成が実力行使に出ると、玉は家臣らに自らの命を絶たせた。(※3)
家臣らは、玉の遺骸が残らぬように遺骸を絹衣で覆い、細川屋敷に火薬をまいて焼き払うと共に全員自害した。享年38歳だった。
辞世の句として、「散りぬべき時 知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」と詠んだ。
神父が細川屋敷の焼け跡から玉の骨を拾い、遺骨を堺のキリシタン墓地に葬った。
この墓地は、まもなく徳川に破壊されている。
また、忠興は玉の死を悲しみ、慶長6年(1601年)、神父にガラシャ教会葬を依頼して葬儀にも参列し、後に遺骨を大坂の崇禅寺へ改葬した。
[追記]
彼女の子孫である細川元首相(細川 護煕“ほそかわ もりひろ”)が、議員辞職の会見で細川 玉の辞世の句を引用している。細川元首相は、肥後細川家の第18代当主。
※1 バテレンとは、キリシタン時代のカトリック司祭のこと。ポルトガル語のパードレ(padre)から、日本人は「伴天連」などの当て字を用い「バテレン」と称した。
※2 洗礼とは、キリスト教の入信に際して、全身を水に浸す、あるいはそれを模し簡略化した頭部に水を触れさせる儀式のこと。
※3 キリスト教では自殺は大罪であり、死後、天国へは行けないという教えが一般的なため。
住 所 | 〒533-0033 大阪市東淀川区東中島5丁目27番44号 |
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アクセス | 阪急京都線・千里線「崇禅寺」駅より徒歩5分 JR「新大阪」駅東口より徒歩10分 |
概 要 | 奈良時代に行基によって創建されて約700年間法相宗の法灯を伝えたのち、室町時代に6代将軍足利義教の菩提寺として再興されて以降約560余年にわたって曹洞宗の教えを伝えて現在に至っています。 |
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